なぜお客様は動くのか?行動経済学を応用した「ついYESと言ってしまう」営業シナリオの作り方

「競合と比較しても、機能も価格も負けていない。ロジカルに説明すれば、必ず良さは伝わるはずだ」 「お客様の課題に、我が社の製品は完璧にフィットする。導入しない理由がない」

経営者や営業責任者の皆様であれば、このように自社の商品・サービスに自信を持ち、万全の準備で商談に臨んだにもかかわらず、お客様から期待した反応が得られなかった、というご経験はないでしょうか。

「検討します」という言葉のまま進展しない。 「良いものだとは思うのですが……」と、最後の最後で決断に至らない。

営業担当者は「ロジック(論理)」で自社の優位性を説いているつもりでも、お客様は「エモーション(感情)」で最後の決断をためらっている。こうしたすれ違いは、営業現場で頻繁に発生しています。

なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。 それは、私たちが「お客様は、常に合理的に(ロジカルに)判断する」という前提に立ってしまっているからです。

本コラムでは、この前提を一度見直し、人間の「非合理的な意思決定」のメカニズムを解き明かす「行動経済学」の視点から、お客様が「ついYESと言ってしまう」営業シナリオ構築のヒントをご提供します。

お客様は「合理的」に判断しているとは限らない

従来の経済学では、人間は常に自らの利益が最大になるよう、合理的に計算して行動するものだと考えられてきました。

しかし、皆様もご自身の経験を振り返ってみてください。 「ダイエット中なのに、ついケーキを食べてしまった」 「本当はAプランの方がお得だと頭ではわかっているのに、なんとなく安心感のあるBプランを選んでしまった」

このように、人間はしばしば「合理的ではない」判断をします。

行動経済学は、こうした人間の心理的なクセ(認知バイアス)が、どのように意思決定に影響を与えるかを研究する学問です。そして、この知見は、お客様の「購買」という意思決定のプロセスを理解する上で、非常に強力な武器となります。

お客様は、私たちが思う以上に「直感」や「感情」で判断し、後から「理屈」でその判断を正当化しているケースが多いのです。

では、営業活動において、具体的にどのような「心のクセ」を理解しておくべきでしょうか。

営業シナリオに応用できる3つの「心のクセ」

営業組織が「個人の感覚」に頼るのではなく、組織として「人間の心の動き」を理解し、シナリオに組み込むことで、成約率は大きく変わってきます。ここでは、特に重要な3つのポイントをご紹介します。

1. 人は「得る喜び」より「失う苦痛」を強く感じる(損失回避性)

行動経済学の有名な理論に「プロスペクト理論」があります。これは、「人は利益を得る喜びよりも、損失を被る苦痛の方を約2倍以上強く感じる」というものです。

例えば、お客様が新しいシステムを導入しようとしている場面を想像してください。

営業担当者は、「このシステムを導入すれば、業務効率が20%上がります(利益)」と熱心に説明します。しかし、お客様の頭の中では、「導入に失敗したらどうしよう」「今のやり方を変えるのは面倒だ(現状の安定を失う)」という「損失」への不安が渦巻いています。

この「失う苦痛」は、「得る喜び」の2倍以上のインパクトでお客様の決断を鈍らせます。これが「現状維持バイアス」——変化を嫌い、現状を維持しようとする心理的なブレーキの正体です。

<シナリオへの応用> お客様に「導入するメリット」を説くだけでなく、**「導入しないことによって、お客様が今、何を失い続けているのか」**を丁寧に認識していただくプロセスが重要です。

  • 「このままのやり方を続けると、毎月〇〇時間分の人件費が『失われ』続けます」
  • 「競合他社が新しい手法を取り入れている中、現状維持を選ぶことは、市場での優位性を『失う』リスクになりませんか?」

メリットを強調する(プラスを説く)のではなく、現状維持のリスク(マイナスを指摘する)を明確にすることで、お客様の「行動を変えなくては」という動機を引き出すのです。

2. 最初に提示された「基準」に判断が引っ張られる(アンカリング効果)

人は、意思決定の際、最初に提示された情報(アンカー=錨)を基準にして、その後の判断を行いがちです。

例えば、ある商品の価格交渉で、最初に「100万円です」と提示されるのと、「150万円ですが、今回は特別に100万円です」と提示されるのでは、同じ「100万円」でも受け取り方が全く変わります。後者の方が「お得感」を感じやすいのは、150万円という数字が基準(アンカー)になっているからです。

<シナリオへの応用> これは単なる値引きの話ではありません。「比較の基準」を営業側が戦略的に提示することが重要です。

  • 「松竹梅」の提示: 多くの人は、3つの選択肢を提示されると、無意識に真ん中の「竹」プランを選びがちです。これは、「松」プランが価格や価値の基準(アンカー)となり、「竹」プランが手頃に見えるためです。本命のプランがある場合、あえてそれより高額なプランを用意することで、本命プランの心理的なハードルを下げることができます。
  • 課題の大きさの提示: 「皆様の課題は、業界平均の2倍深刻です」といった客観的なデータを先に示すことで、その後の解決策(自社の商品)の価値が、お客様の中で相対的に高く設定されます。

3. 情報の「見せ方」で印象がガラリと変わる(フレーミング効果)

同じ内容であっても、どのような「フレーム(枠組み)」で提示するかによって、人の受け取り方は大きく変わります。

  • 「手術の成功率は90%です」
  • 「手術の失敗率は10%です」

どちらも同じ事実を述べていますが、多くの人は前者の「成功率90%」と聞いた方が、その手術を受ける決断をしやすくなります。ポジティブな側面(成功)を強調するか、ネガティブな側面(失敗)を強調するかで、意思決定が変わるのです。

<シナリオへの応用> お客様にとっての「価値」を、どのような言葉のフレームで伝えるかを設計します。

  • 「この機能は、月額5,000円のコストがかかります」(コスト・フレーム)
  • 「この機能は、1日あたり約160円の投資で、毎日の作業時間を1時間短縮します」(投資・リターン・フレーム)

特に、経営者や責任者の方々は「コスト」には敏感ですが、「未来への投資」や「リスク回避」というフレームで提示されると、判断の基準が変わることがあります。お客様が普段どのような言葉を重視しているかを理解し、それに合わせて「響くフレーム」で提案を再構築することが有効です。

「シナリオ」を組織の力にするために

ここまで、行動経済学のいくつかの側面をご紹介しました。しかし、こうした心理的なアプローチは、一人の優秀な営業担当者の「感覚」や「テクニック」に留まっていては、組織の力にはなりません。

重要なのは、これらの知見を、営業組織全体の「シナリオ」として設計し、誰もが実行できるレベルに落とし込むことです。

そして、そのシナリオを定着させるために不可欠なのが、**「社員の育成」「日々の振り返り」**です。

多くの営業組織では、商談の振り返り(レビュー)が「今月の数字は達成できそうか?」という「結果」の確認に終始しがちです。

しかし、本当に必要なのは、「結果」の追求だけではなく、「プロセス」の分析です。

  • 「あの商談で、お客様はどの瞬間に『損失の不安』を感じているように見えたか?」
  • 「我々が提示した『比較の基準』は、お客様に響いていたか?」
  • 「今回の提案の『フレーム(見せ方)』は、お客様の関心事とズレていなかったか?」

こうした「お客様の心理がどう動いたか」という視点での振り返りを、上司と部下が**「1on1ミーティング」**などの場で定期的に行うことが、営業担当者一人ひとりの育成に直結します。

上司が答えを教えるのではなく、 「あのお客様は、なぜあのタイミングで表情が曇ったと思う?」 「次、同じ状況なら、どういう言葉で伝えたら不安を取り除けるだろう?」 と問いかける。

こうした対話を通じて、営業担当者は「商品を説明する」レベルから、「お客様の心理を読み解き、決断を後押しする」レベルへと成長していきます。

個人の才能に依存した営業から脱却し、お客様の心の動きを組織的に理解し、シナリオを磨き続ける。それこそが、変化の激しい時代においても安定して成果を出し続ける営業組織の姿ではないでしょうか。

お客様の「なんとなく不安」「なんとなく気が進まない」という無意識のブレーキを、皆様の組織は正しく理解し、取り除くアプローチができているでしょうか。一度、行動経済学の視点から、自社の営業シナリオを見直してみてはいかがでしょうか。