はじめに:ある日突然訪れる、「期待の若手」からの退職願
「手塩にかけて育ててきた、あの若手が辞めたいと言ってきた」 「将来の幹部候補として期待していたのに、なぜ…」
経営者や営業責任者の皆様であれば、一度はこのような経験に胸を痛めたことがあるのではないでしょうか。特に、高いパフォーマンスを発揮し、将来を嘱望していた若手社員からの突然の退職願は、事業への直接的なダメージだけでなく、経営者としての自信や組織への信頼をも揺るがしかねない、深刻な問題です。
給与や待遇の改善、福利厚生の充実など、考えられる対策は講じてきた。それにも関わらず、なぜ彼ら、彼女らは会社を去っていくのでしょうか。「最近の若者は忍耐力がない」「もっと良い条件の会社に惹かれたのだろう」と、個人の価値観や外部環境に原因を求めてしまうのは簡単です。しかし、問題の本質は、もっと根深く、組織の内部構造に潜んでいるのかもしれません。
本コラムでは、優秀な若手の離職という課題に焦点を当て、彼らが本当に求めているものは何か、そして企業としてどのようにエンゲージメントを高め、持続的な成長を共に目指すことができるのかについて、深く掘り下げていきます。これは単なる離職防止策の話ではありません。社員一人ひとりが輝き、組織全体が活性化するための、経営の根幹に関わるテーマです。
若手が会社を辞める、本当の理由
「給与が低い」「労働時間が長い」といった条件面が、退職の引き金になることは確かにあるでしょう。しかし、特に優秀で意欲の高い若手人材の場合、それ以上に重要な要因が存在します。彼らが退職を決意する背景には、多くの場合、以下の4つの「実感」の欠如が関係しています。
1. 「このままでは成長できない」という停滞感
若手社員は、自身のキャリアにおける「成長」を非常に強く意識しています。日々の業務がルーティン化し、新しい挑戦の機会が与えられない環境では、「この会社にいても、自分の市場価値は上がらないのではないか」という漠然とした、しかし深刻な不安を抱くようになります。
上司から具体的なフィードバックが得られない、自分の仕事の成果が何に繋がっているのかが見えない、数年後の自分の姿が今の先輩や上司の姿だと想像した時に魅力を感じない。こうした状況は、彼らの学習意欲や向上心を徐々に蝕んでいきます。成長とは、単に役職が上がることやスキルを習得することだけではありません。日々の業務を通じて、昨日の自分よりも今日の自分ができることが増えている、という確かな手応えを感じられるかどうかが重要なのです。
2. 「自分の仕事は意味があるのか」という貢献実感の欠如
自分が取り組んでいる仕事が、会社の成長や社会に対して、どのように貢献しているのか。この繋がりを実感できない時、仕事は単なる「作業」へと成り下がります。特に営業という職種は、時に厳しい断りやクレームに直面することもあります。そうした困難を乗り越えるためのエネルギー源となるのが、「自分の仕事が誰かの役に立っている」という貢献実感です。
会社の理念やビジョンが共有されておらず、日々の営業活動が単なる数字の達成目標としてのみ語られる環境では、社員は自分が大きな機械の歯車の一つに過ぎないと感じてしまいます。自分の努力が、最終的にどのような価値を生み出しているのか。そのストーリーが見えない時、仕事への情熱は急速に失われていきます。
3. 「正当に評価されていない」という不公平感
人は誰しも、自分の頑張りを認められ、正当に評価されたいと願うものです。しかし、評価の基準が曖昧であったり、上司の主観に大きく左右されたりする環境では、社員は不公平感を募らせます。
例えば、成果(数字)だけが評価され、そこに至るまでのプロセスや見えない努力が全く考慮されない。あるいは、声の大きい社員ばかりが評価され、真面目にコツコツと努力している社員が見過ごされる。こうした状況は、真摯に仕事に取り組む社員ほど、モチベーションを低下させる原因となります。評価とは、給与や賞与を決めるためだけのものではありません。社員の努力を承認し、次への挑戦を後押しするための、重要なコミュニケーションなのです。
4. 「この人たちとは一緒に働けない」という人間関係の断絶
リモートワークの普及もあり、以前にも増して上司と部下、同僚間のコミュニケーションの質が問われるようになっています。業務上の報告・連絡・相談はあっても、キャリアの悩みや個人的な課題について安心して話せる相手がいない。上司との1on1ミーティングも、実態は単なる進捗確認の場になってしまっている。
このようなコミュニケーションの断絶は、社員に孤独感を与え、エンゲージメントを著しく低下させます。特に若手社員は、経験豊富な上司や先輩からのアドバイスやサポートを求めています。信頼できる相談相手がいない環境では、小さなつまずきが大きな不安へと増幅し、やがて「この組織には自分の居場所がない」という結論に至ってしまうのです。
エンゲージメントを高めるための処方箋
では、どうすればこれらの課題を克服し、若手社員が「この会社で働き続けたい」と心から思える組織を築くことができるのでしょうか。その答えは、前述した4つの「実感」を、組織として意図的に育んでいく仕組みを構築することにあります。
1. 「成長実感」を育むための「見える化」と「振り返り」
社員の成長を促す第一歩は、現状を客観的に把握することから始まります。営業活動において、「誰が、いつ、何を、どのように行い、どのような結果に繋がったのか」をデータとして「見える化」することが極めて重要です。
勘や経験則だけに頼るのではなく、客観的な事実に基づいて個々の営業活動を分析することで、本人の強みや改善点が明確になります。例えば、Aさんは初回訪問でのヒアリング力に長けているが、クロージングに課題がある。Bさんは提案資料の作成は得意だが、アポイントの獲得率が低い。このように、具体的な事実を基にすることで、指導は的確になり、本人も納得感を持って改善に取り組むことができます。
そして、この「見える化」されたデータを基に、定期的な「振り返り」の場を設けることが不可欠です。ここで有効なのが、質の高い1on1ミーティングです。
これは、単なる進捗管理やダメ出しの場ではありません。マネージャーとメンバーが1対1で向き合い、データを見ながら「なぜ今回は上手くいったのか」「次にもっと良くするためには、どうすればいいか」を共に対話する時間です。この対話を通じて、メンバーは自身の行動と結果の因果関係を学び、自ら課題を発見し、解決策を考える力を養っていきます。マネージャーは、ティーチング(教える)だけでなく、コーチング(引き出す)の視点を持ち、本人の気づきを促すことが求められます。
このような質の高い振り返りの積み重ねが、「昨日できなかったことが、今日できるようになった」という具体的な成長実感を生み出し、仕事への面白さと自信を育むのです。
2. 「貢献実感」を醸成する、ビジョンとフィードバックの共有
経営者は、会社のビジョンやミッションを、繰り返し自分の言葉で語り続ける必要があります。そして、その大きな目標と、現場の営業メンバー一人ひとりの日々の活動が、どのように繋がっているのかを具体的に示すことが重要です。
例えば、「我々のサービスが、顧客である〇〇社の△△という課題を解決し、その結果、業界全体の生産性向上に繋がっている。君が今日獲得したあのアポイントは、その大きな流れを作るための、非常に価値ある一歩なのだ」と伝える。このようなコミュニケーションが、日々の地道な業務に意味と誇りを与えます。
また、顧客からの感謝の声や、社内の他部署からの称賛などを、積極的に本人にフィードバックする仕組みも有効です。自分の仕事が、数字という無機質な結果だけでなく、生身の人間の喜びや感謝に繋がっていると知ることは、何よりのモチベーションとなります。
3. 「達成実感」と「自己表現」を支える、個性を活かす仕組み
画一的な営業手法を全員に押し付けるのではなく、メンバー一人ひとりの個性や強みを活かせる環境を整えることが、エンゲージメント向上には欠かせません。
そのためにはまず、マネージャーがメンバー一人ひとりの特性(得意なこと、苦手なこと、価値観など)を深く理解する必要があります。これもまた、日々のコミュニケーションや1on1を通じて「メンバーの見える化」を進めることで可能になります。
例えば、ロジカルな思考が得意なメンバーにはデータ分析を基にした提案を、共感性の高いメンバーには顧客との関係構築を重視したアプローチを、といったように、個々の強みを最大限に発揮できる役割やスタイルを一緒に見つけていくのです。
そして、その上で適切な目標を設定します。高すぎず、低すぎない、本人が「頑張れば手が届く」と感じられるストレッチな目標です。そして、結果だけでなく、その目標達成に向けてどのような工夫をしたのか、どのような努力を重ねたのかという「プロセス」をきちんと評価し、称賛する文化を育むことが大切です。
自分のやり方で、自分の強みを活かして挑戦し、目標を達成する。この経験の繰り返しが、揺るぎない「達成実感」と、仕事における「自己表現」の喜びを育んでいきます。
「個人の頑張り」から「組織で勝つ」仕組みへ
ここまで述べてきた取り組みは、特定のカリスマ的なマネージャーの個人的なスキルに依存するものであってはなりません。それでは、そのマネージャーが異動したり退職したりすれば、組織は元の状態に戻ってしまいます。
重要なのは、これらのエンゲージメント向上のためのアプローチを、**「組織の仕組み」**として定着させることです。
- データに基づいた営業活動の「見える化」と「振り返り」を、定例の会議や1on1に組み込む。
- 成果だけでなくプロセスも評価する基準を、人事評価制度に盛り込む。
- 顧客からのフィードバックを収集し、共有するためのフローを確立する。
- マネージャー向けに、コーチングや1on1のスキルアップ研修を定期的に実施する。
こうした仕組みを構築することで、誰がマネージャーになっても、どのチームに配属されても、社員が成長実感や貢献実感を得られる、安定した基盤が生まれます。それは、個人の頑張りに依存する脆い組織から、組織力で安定的に成果を出し続ける、強くしなやかな組織への変革を意味します。
おわりに:離職は、組織が生まれ変わるための重要なサイン
優秀な若手の離職は、企業にとって大きな損失です。しかし、それを単なる嘆きで終わらせるのではなく、自社の組織のあり方や人材育成の仕組みを見直すための、重要なサインとして捉えることができれば、それは未来への大きな飛躍のきっかけとなり得ます。
社員のエンゲージメントを高めるという課題に、特効薬や近道はありません。まずは、目の前の社員一人ひとりと真摯に向き合い、彼らの声に耳を傾けることから始まります。彼らは何に喜び、何に悩み、そして、どのような未来を描いているのか。
本日のコラムが、貴社の優秀な人材が定着し、一人ひとりがその能力を最大限に発揮できるような組織作りの一助となれば幸いです。もし、自社だけでこれらの課題に取り組むことに難しさを感じていらっしゃるようでしたら、外部の専門家の視点を取り入れ、客観的な分析から改善のサイクルを回していくことも、有効な選択肢の一つかもしれません。まずは、自社の現状を正しく把握することから、その第一歩を踏み出してみてはいかがでしょうか。