「今期の受注率は過去最高を記録した」「営業チームは目標を達成し、社内は活気に満ちている」。経営者や営業責任者の方にとって、これほど喜ばしい報告はないでしょう。高い受注率は、市場における自社製品・サービスの競争力や、営業チームの実力の証明であり、事業成長の力強いエンジンであることは間違いありません。
しかし、その一方で、「受注は増えているはずなのに、なぜか利益が思うように伸びない」「売上は立っているが、常に資金繰りに追われている感覚が抜けない」といった、拭いがたい不安を抱えてはいないでしょうか。もし、そうした状況に心当たりがあるのであれば、一度立ち止まって、見落とされがちなもう一つの重要な指標に目を向ける必要があります。
それが「解約率(チャーンレート)」です。
本稿では、なぜ高い受注率を達成しているにもかかわらず利益が残らないのか、その大きな原因となりうる「解約率」の問題に焦点を当て、その背景にある構造的な課題と、企業の持続的な成長に向けた解決の方向性について、具体的かつ論理的に解説していきます。
1. 「穴の空いたバケツ」になっていませんか?解約率が利益を蝕むメカニズム
企業の成長を、水を溜めるバケツに例えてみましょう。営業チームが獲得する新規受注は、バケツに注がれる新しい水です。受注率が高ければ、勢いよく水が注ぎ込まれている状態と言えるでしょう。
しかし、もしそのバケツの底に穴が空いていたらどうなるでしょうか。どれだけ懸命に水を注ぎ込んでも、溜まる水の量は思うように増えません。それどころか、注ぐ水の量を少しでも緩めれば、水位はあっという間に下がってしまいます。この「穴」こそが、高い解約率がもたらす経営上の損失なのです。
解約率が高い状態は、具体的に企業の利益をどのように蝕んでいくのでしょうか。大きく分けて二つの側面から見ていきましょう。
第一に、新規顧客獲得コストの増大です。
マーケティングや営業の世界でよく知られる法則に「1:5の法則」というものがあります。これは、新規顧客を獲得するコストは、既存顧客を維持するコストの5倍かかる、という経験則です。
考えてみれば当然のことです。新規顧客を獲得するためには、広告宣伝費、展示会への出展費用、そして営業担当者が認知獲得から信頼関係の構築、提案、クロージングに至るまでにかける多くの時間と労力、すなわち人件費という膨大なコストが発生します。
高い受注率を誇っていても、それと同じくらいのペースで顧客が解約していくのであれば、企業は常にこの高コストな新規顧客獲得活動にリソースを割き続けなければなりません。それは、まさに「穴の空いたバケツ」に水を注ぎ続ける行為であり、獲得した利益が、次なる新規顧客獲得コストへと消えていく、非効率な自転車操業に陥ってしまうのです。
第二に、LTV(顧客生涯価値)の著しい低下です。
LTV(Life Time Value)とは、一人の顧客が取引を開始してから終了するまでの間に、自社にもたらす利益の総額を指します。持続的に成長する企業は、このLTVを最大化することを経営の重要な指標としています。
例えば、月額10万円のサービスを提供しているとします。顧客が1年間継続してくれれば、その顧客の売上は120万円になります。しかし、もし3ヶ月で解約されてしまえば、売上は30万円にとどまります。この差である90万円は、本来得られるはずだった未来の利益の損失です。
解約率が高いということは、このLTVが低い顧客ばかりを量産している状態に他なりません。せっかく高いコストをかけて獲得した顧客が、そのコストを回収し、企業に十分な利益をもたらす前に離れていってしまう。これでは、受注件数という短期的な指標は達成できても、企業の中長期的な成長基盤はいつまで経っても築かれないのです。
さらに、解約は目に見える利益の損失だけでなく、社員のモチベーション低下という、見えざるコストも生み出します。営業担当者が情熱をかけて受注した顧客が、すぐに解約してしまう。この事実の繰り返しは、「自分の営業活動は、本当に顧客のためになっているのだろうか」という疑念を生み、仕事に対する貢献実感や達成感を奪っていきます。活気があるように見えた組織も、内実では疲弊が進んでいる、という事態も起こりうるのです。
2. なぜ解約は起こるのか?「受注の質」という根本課題
「解約率が高いのは、製品・サービスの品質が悪いからだ」 「導入後のカスタマーサポート体制が不十分だからだ」
もちろん、それらも解約の一因ではあるでしょう。しかし、受注率が高いにもかかわらず解約率も高いというケースでは、問題の根源はもっと手前、つまり「営業活動そのもの」にある場合が少なくありません。それは、「受注の数」を追い求めるあまり、「受注の質」が疎かになっているという課題です。
質の低い受注とは、具体的にどのようなものでしょうか。
原因1:期待値のミスマッチ
「このシステムを導入すれば、御社の課題はすべて解決できます」 「この機能を使えば、売上が倍増することをお約束します」
受注を急ぐあまり、このような過度な期待を抱かせるような営業トークを展開していないでしょうか。あるいは、顧客の抱える課題のヒアリングが不十分なまま、自社製品のメリットばかりを一方的に伝え、契約を迫ってはいないでしょうか。
このような営業活動によって獲得した受注は、導入後に「こんなはずではなかった」「聞いていた話と違う」という顧客の不満に直結します。顧客が抱いていた期待と、実際に提供される価値との間に大きなギャップが生まれてしまうのです。この期待値のミスマッチこそが、早期解約の最も大きな原因の一つです。
原因2:「売って終わり」の営業スタイル
営業担当者の評価が、受注件数や受注金額のみで決まる組織では、「契約書に印鑑をもらうまで」がゴールになりがちです。その結果、営業担当者の関心は「顧客が導入後にいかに成功するか」ではなく、「いかにして目の前の案件を受注するか」に集中してしまいます。
しかし、顧客が本当に求めているのは、製品やサービスそのものではなく、それを通じて自社の課題を解決し、事業を成功させることです。その成功への道のりを共に描き、伴走するという視点が欠落した営業は、顧客にとっては「売りつけられた」という印象しか残りません。信頼関係が築けていないため、少しでも活用につまずいたり、他に魅力的なサービスが現れたりすれば、顧客はためらいなく解約を選択するでしょう。
原因3:個人のスキルに依存した組織構造
一部のトップセールスの活躍によって、高い受注率を維持しているケースも注意が必要です。彼らは卓越したコミュニケーション能力や課題発見力で、次々と大型案件を受注してくるかもしれません。しかし、その受注が彼ら個人のスキルに依存しており、組織として「質の高い受注」を生み出すプロセスや基準が確立されていない場合、多くの問題が生じます。
トップセールスが受注した案件の引き継ぎがうまくいかず、導入後のフォロー担当者が顧客の期待値を正確に把握できていない。あるいは、他の営業担当者がトップセールスのやり方を表面的に真似しようとして、結果的に顧客の課題とずれた提案をしてしまう。
個人の頑張りに頼った組織は、一見華々しい成果を上げていても、その実態は非常に脆いものです。その人が異動や退職をすれば、途端に業績は傾きます。そして何より、組織全体として顧客の成功を支援するという文化が育たず、質の低い受注が生まれやすい土壌が温存されてしまうのです。
3. 解約率を改善し、持続的な成長を実現するための第一歩
では、この負のスパイラルから抜け出し、解約率を下げ、企業を持続的な成長軌道に乗せるためには、何から手をつけるべきなのでしょうか。それは、対症療法ではなく、営業組織のあり方そのものを見直す、構造的なアプローチです。
ステップ1:顧客の声に真摯に耳を傾け、現状を直視する
まず行うべきは、現状の正確な把握です。自社の解約率が具体的に何パーセントなのか、どのような顧客が、どのタイミングで解約しているのかをデータに基づいて分析します。
そして、勇気を持って解約した顧客に理由をヒアリングすることが極めて重要です。そこには、耳の痛い話もあるかもしれません。しかし、その「生の声」こそが、自社の営業活動や製品・サービスが顧客に与えていた価値とのギャップを教えてくれる、何より貴重な情報源となります。
社内においても、営業担当者、開発部門、カスタマーサポート部門など、顧客と接点を持つすべての関係者から情報を集め、なぜ解約が起きているのか、多角的に原因を分析することが不可欠です。
ステップ2:営業プロセスの再構築と「質の高い受注」の定義
次に、分析結果をもとに、営業プロセスそのものを見直します。目先の受注件数だけを追うのではなく、「質の高い受注」とは何かを社内で具体的に定義し、それを新たな目標として設定します。
例えば、以下のような基準が考えられます。
- 顧客の課題と、その解決策としての自社サービスの位置づけを明確に言語化できているか。
- 導入後の成功イメージ(KGI/KPI)を顧客と共有し、合意形成ができているか。
- 意思決定者だけでなく、現場の担当者も含めて、導入への納得感が高いか。
- できないことは「できない」と誠実に伝え、顧客との期待値調整が適切に行われているか。
これらの基準を満たすために、商談の各フェーズで何を確認し、何を顧客と合意すべきかをプロセスに落とし込み、組織全体で実行していくのです。これは、営業活動を単なる「売り込み」から、顧客の課題解決を支援する「コンサルティング」へと昇華させるプロセスでもあります。
ステップ3:対話を通じた人材育成と、学び続ける組織文化の醸成
仕組みやプロセスを整えるだけでは、組織は変わりません。それを実行するのは、現場の営業担当者一人ひとりです。画一的な営業研修を繰り返すのではなく、それぞれの個性や強みを活かしながら、顧客と真摯に向き合える人材を育てていく必要があります。
そのために有効なのが、上司と部下による定期的な1on1ミーティングです。そこでは、単なる案件の進捗確認だけでなく、「あのお客様は、本当は何に困っていると思う?」「今回の提案で、お客様の期待を超えるためには何が必要だろうか?」といった、より本質的な対話を行うことが重要です。
こうした対話を通じて、営業担当者は目先の数字だけでなく、顧客の成功という長期的な視点を持つようになります。上司は部下の悩みや課題を早期に把握し、個別の状況に合わせた的確なアドバイスを送ることができます。
さらに、成功事例だけでなく、失注事例や、受注後に解約に至ってしまった事例もオープンに共有し、組織全体で「なぜそうなったのか」「どうすれば防げたのか」を学ぶ文化を醸成することも不可欠です。失敗から学ぶことを許容し、挑戦を奨励する風土が、組織の成長を加速させます。
結論:企業の未来は「解約率」という鏡に映し出される
高い受注率は、短期的な成長の指標として非常に魅力的です。しかし、その裏で高い解約率を放置することは、企業の土台を静かに、しかし確実に蝕んでいきます。
解約率という指標は、単なる数字ではありません。それは、自社が顧客に対して提供している価値が、本当に顧客の期待に応えられているのかを映し出す「鏡」です。その鏡に映る姿から目を背けず、真摯に向き合うこと。そして、顧客の成功を第一に考え、営業活動のあり方、さらには組織全体のあり方を見直していくこと。
それこそが、目先の利益に一喜一憂する不安定な経営から脱却し、顧客から選ばれ続け、持続的に成長していく企業となるための、唯一の道ではないでしょうか。
まずは、貴社の「解約率」という鏡を、今一度じっくりと覗き込んでみることから始めてみてはいかがでしょうか。その先に、貴社の未来をより強固にするための、多くのヒントが隠されているはずです。