はじめに:あなたの会社は「穴の開いたバケツ」になっていませんか?
多くの経営者や営業責任者の皆様が、売上向上のために新規顧客の開拓に日々奔走されています。高い目標を掲げ、新たな市場を求め、営業担当者を鼓舞する。その情熱と努力は、企業成長に欠かせないものです。
しかし、その一方で、こんな感覚に陥ったことはないでしょうか。
「あれだけ必死に新規顧客を獲得しているのに、なぜか月末の売上は思ったほど伸びていない」 「売上は立っているはずなのに、会社の利益がなかなか安定しない」 「営業チームは常に忙しそうにしているが、どこか疲弊感が漂っている」
もし、これらのいずれかに心当たりがあるのなら、貴社は知らず知らずのうちに「穴の開いたバケツ」に必死に水を汲み続けている状態に陥っているのかもしれません。
バケツに水を満たすために、上から懸命に新しい水を注ぎ込む(新規顧客を獲得する)。しかし、バケツの底には穴が開いており(既存顧客が解約・離脱している)、注いだそばから水が漏れ出ていく。これでは、どれだけ多くの水を注いでも、バケツが満たされることはありません。それどころか、水を汲む労力ばかりが増え、現場は疲弊し、やがては水を汲むこと自体が困難になってしまいます。
本コラムでは、多くの企業が見過ごしがちな「解約率(チャーンレート)」という問題に焦点を当て、なぜ新規顧客の開拓よりも先に「バケツの穴」を塞ぐべきなのか、そして、そのために具体的に何をすべきなのかを、論理的かつ実践的な視点から解説していきます。
なぜ、新規開拓よりも「解約率の低下」を優先すべきなのか?
「顧客が減った分は、新しい顧客で補えばいい」。そう考えるのは自然なことかもしれません。しかし、この考え方には大きな落とし穴が潜んでいます。安定した事業成長を目指す上で、解約率の低下を優先すべき理由は、主に「経済的な合理性」と「事業基盤の安定性」の二つの側面にあります。
1. 無視できない「コスト」の現実:1:5の法則と5:25の法則
営業やマーケティングの世界には、古くから知られている二つの法則があります。
- 1:5の法則: 新規顧客を獲得するコストは、既存顧客を維持するコストの5倍かかるという法則です。考えてみれば当然のことかもしれません。新規顧客を獲得するためには、広告宣伝費、マーケティング費用、そして営業担当者が認知度ゼロの状態からアプローチし、信頼関係を築くまでの多大な時間と労力が必要です。一方、既存顧客はすでに貴社の商品やサービスを知っており、一定の関係性も構築できています。その関係性を維持するためのコストが、新規獲得コストよりもはるかに低く抑えられるのは自明の理です。
- 5:25の法則: 顧客離れを5%改善すれば、利益が最低でも25%改善されるという法則です。これは、ハーバード・ビジネス・スクールのフレデリック・ライクヘルド氏が提唱したもので、顧客維持率のわずかな向上が、企業の収益性にいかに大きなインパクトを与えるかを示しています。維持された顧客は、継続的に商品やサービスを購入してくれるだけでなく、アップセル(より高価格帯の商品への移行)やクロスセル(関連商品の購入)に応じてくれる可能性も高まります。つまり、顧客であり続けてくれる期間が長くなるほど、その顧客から得られる生涯利益(LTV: Life Time Value)は雪だるま式に増えていくのです。
穴の開いたバケツに水を注ぎ続ける行為は、コストの高い「新規獲得」にばかりリソースを割き、最も効率的に利益を生み出す「既存顧客の維持」を疎かにしていることに他なりません。これは、経営資源の観点から見て、極めて非効率な状態と言わざるを得ないのです。
2. 企業の成長を支える「LTV(顧客生涯価値)」という考え方
LTV(Life Time Value)とは、一人の顧客が取引を開始してから終了するまでの間に、自社にどれだけの利益をもたらしてくれるかを示す指標です。
簡単な計算式で表すと、以下のようになります。
LTV=平均顧客単価×収益率×購買頻度×継続期間
この式を見れば明らかなように、LTVを最大化するためには、顧客に「より長く」「より頻繁に」サービスを利用してもらうこと、つまり「継続期間」を延ばすことが非常に重要です。解約率が高いということは、この「継続期間」が短いことを意味し、それはLTVの低下に直結します。
LTVの高い優良顧客を多く抱える企業は、収益基盤が安定します。毎月の売上の予測が立てやすくなり、将来に向けた投資計画も具体的に描くことができます。逆に、解約率が高く、常に新規顧客を探し回らなければならない企業は、収益が不安定で、常に短期的な売上目標に追われる自転車操業に陥りがちです。
さらに、満足度の高い既存顧客は、貴社にとって最高の「営業担当者」にもなり得ます。彼らが発信する好意的な口コミや、知人への紹介(リファラル)は、極めて質の高い新規顧客を、ほとんどコストをかけずにもたらしてくれます。解約率を下げ、顧客満足度を高めることは、結果的に効率的な新規顧客獲得にもつながる、好循環を生み出すのです。
では、どうすれば「バケツの穴」を塞げるのか?
解約率を下げることが重要であることはご理解いただけたかと思います。では、具体的に何から手をつければ良いのでしょうか。ここでは、そのための3つのステップを解説します。
ステップ1:まずは「穴の場所と大きさ」を正確に知る
問題を解決するためには、まず現状を正しく把握することが不可欠です。感覚的に「最近、解約が多いな」と感じるだけでは、有効な対策は打てません。
- 解約率(チャーンレート)の算出: まずは、自社の解約率を毎月、正確に算出する仕組みを作りましょう。顧客数ベースの「カスタマーチャーンレート」と、収益ベースの「レベニューチャーンレート」の両方を把握することが理想です。
- カスタマーチャーンレート (%) = (期間中に解約した顧客数 ÷ 期間開始時の総顧客数) × 100
- レベニューチャーンレート (%) = (期間中に失った収益額 ÷ 期間開始時の総収益額) × 100 特にBtoBビジネスでは、顧客単価にばらつきがあるため、レベニューチャーンレートを見ることで、どの価格帯の顧客が離脱しているのか、経営へのインパクトをより正確に把握できます。
- 解約原因の分析: 解約率を把握したら、次になぜ顧客が離れていくのか、その「原因」を徹底的に分析します。
- 解約顧客へのヒアリング(エグジットサーベイ): 解約手続きの際に、簡単なアンケートや電話でのヒアリングを実施し、直接的な理由を聞き出します。これは最も価値のある情報源です。
- 既存顧客へのアンケート: 「当社のサービスに満足していますか?」「改善してほしい点はありますか?」といった形で、定期的に顧客の声を集め、解約の予兆を掴みます。
- 営業・カスタマーサポート担当者へのヒアリング: 顧客と最も近い距離にいる現場の社員は、顧客の不満や悩みを肌で感じています。彼らから「最近、お客様からこんな声をよく聞く」といった定性的な情報を集めることも非常に重要です。
これらの分析を通じて、「製品の機能不足」「価格が高い」「サポート体制への不満」「期待した効果が出なかった」「担当者の対応が悪かった」など、解約に至る複数の原因を突き止め、その中でも特に多い原因、つまり「最も大きな穴」はどこにあるのかを特定します。
ステップ2:顧客との関係性を「点」から「線」へ変える
解約の多くは、企業と顧客との関係性が希薄になったときに起こります。「売って終わり」という点での関わりではなく、契約後も継続的に顧客と関わり、成功に導くための「線」の関係性を築くことが、解約を防ぐ上で極めて重要です。
- オンボーディングプロセスの徹底: 特に契約初期は、顧客が最も不安を感じ、つまずきやすい時期です。この「オンボーディング(導入支援)」の期間に、いかに顧客を放置せず、製品・サービスの使い方を丁寧に説明し、早い段階で「導入して良かった」という小さな成功体験を提供できるかが、その後の継続利用率を大きく左右します。導入支援のプロセスを標準化し、誰が担当しても一定の品質を保てるように仕組み化しましょう。
- 能動的なカスタマーサクセスの実践: 問題が起きてから対応する「カスタマーサポート」だけでは不十分です。問題が起きる前に、顧客の状況を能動的に把握し、「もっとこうすれば成果が出ますよ」「こんな新機能が追加されました」といった形で、顧客の成功を先回りして支援する「カスタマーサクセス」の視点が求められます。定期的な面談や活用状況のデータ分析を通じて、顧客がサービスを使いこなせているか、満足しているかを常にウォッチし、解約の兆候が見られたらすぐに対応できる体制を構築します。
- コミュニケーションの「質」を高めるための人材育成: こうした顧客との継続的な関係性構築において、最終的にその質を担保するのは「人」、つまり現場の社員一人ひとりです。顧客が抱える表面的な課題を聞くだけでなく、その背景にある真の目的や悩みを深く理解し、信頼されるパートナーとなるためには、高い対話力が求められます。
ここで有効なのが、上司と部下による定期的な1on1ミーティングです。週に1回、あるいは隔週に1回、30分程度の短い時間でも構いません。上司が部下に対して、「あの顧客との関係はどうなっている?」「何か困っていることはないか?」「顧客からどんな声が挙がっている?」といった対話を通じて、個々の案件の進捗だけでなく、担当者が抱える課題や顧客対応の悩みなどを引き出します。
こうした1on1は、単なる進捗管理の場ではありません。上司が部下の話に耳を傾け、一緒になって顧客へのアプローチ方法を考え、具体的なアドバイスを送ることで、部下の顧客対応スキルは着実に向上します。成功事例を共有すれば、それは担当者個人の経験知から組織全体の資産へと昇華します。このような地道な人材育成こそが、組織全体の顧客対応力を底上げし、強固な顧客関係を築くための土台となるのです。
ステップ3:顧客の声を「仕組み」に反映し続ける
ステップ1と2で得られた顧客の声や現場の気づきを、その場限りの対応で終わらせていては、同じ問題が繰り返し発生します。顧客からのフィードバックを、製品・サービスの改善や営業プロセスの見直しに活かす「仕組み」を構築することが重要です。
- フィードバックの集約と共有: 営業、カスタマーサクセス、開発など、異なる部署が得た顧客情報を一元的に管理し、関係者全員がいつでも閲覧できる仕組み(例えば、CRMやSFAツールの活用)を整えます。「A社からこんな機能要望があった」「B社は価格についてこう感じている」といった情報がリアルタイムで共有されれば、全社的に顧客視点での意思決定が可能になります。
- 改善サイクルを回す: 集約された顧客の声を基に、定期的に関係部署が集まり、「どの改善要望に優先的に対応するか」「営業トークをどう見直すか」「サポート体制をどう強化するか」といった議論を行い、具体的なアクションプランに落とし込みます。そして、その施策を実行し、結果を再び顧客の声や解約率のデータで検証する。この「Plan-Do-Check-Action(PDCA)」のサイクルを回し続けることで、組織は継続的に学習し、顧客にとってより価値のある存在へと進化していくことができます。
おわりに:穴を塞ぐことから、真の成長は始まる
新規顧客の獲得は、華やかで、分かりやすい成果に見えるかもしれません。しかし、足元のバケツから水が漏れ続けている状態を放置したままでは、その努力は砂上の楼閣となりかねません。
解約率を低下させる取り組みは、一見すると地味で、すぐに結果が出るものではないかもしれません。しかし、それは企業の足元を固め、収益構造を安定させ、社員の疲弊を防ぎ、長期的な成長を可能にするための、極めて重要な経営課題です。顧客一人ひとりと真摯に向き合い、その成功を支援し、頂いた声を真摯に受け止めて自らを改善していく。この地道な活動の先にこそ、持続可能な企業の姿があります。
本コラムを読み、自社の状況を振り返ってみて、「何から手をつければ良いのかわからない」「原因は薄々感じているが、具体的な打ち手が見えない」「現場を動かすための客観的な視点や推進力が必要だ」と感じられた経営者の方もいらっしゃるかもしれません。
そのような時は、一度立ち止まり、自社の「バケ-ツの穴」の現状を客観的に診断し、それを塞ぐための具体的な計画を立てることから始めてみてはいかがでしょうか。外部の専門家の知見を借りながら、自社の課題を整理し、取り組むべき優先順位を明確にすることも、有効な選択肢の一つです。
貴社の事業が、揺るぎない土台の上で、力強く成長していくことを心より願っております。