はじめに:ある日突然、会社の信頼が崩れ去る悪夢
経営者や営業責任者の皆様は、日々、売上目標の達成、市場での競争力強化、そして組織の成長のために尽力されていることと存じます。しかし、どれだけ素晴らしい商品やサービスを持っていても、どれだけ高い売上を上げていても、たった一つの過ち、たった一人の社員の不適切な行動によって、長年かけて築き上げた会社の信頼が、一瞬にして崩れ去る可能性があるという現実から、私たちは目を背けることはできません。
「うちの社員に限って、そんなことはないだろう」 「コンプライアンス研修は定期的に行っているから大丈夫だ」
本当にそうでしょうか。近年、企業の不祥事に関するニュースが後を絶ちません。その多くは、一部の悪意ある人間によるものではなく、ごく普通の社員が「これくらいなら大丈夫だろう」「目標達成のためには仕方ない」というプレッシャーの中で、あるいは無自覚のうちに、一線を越えてしまった結果として発生しています。
特にリモートワークが普及し、働き方が多様化する現代において、上司が部下の日々の業務プロセスや、顧客との細かなやり取りをすべて把握することは、ますます難しくなっています。画面の向こう側にいる部下が、今どのような状況で、どのような判断を下しているのか。その実態が見えにくくなっていることに、漠然とした不安を感じている経営者の方も少なくないのではないでしょうか。
本稿では、こうした「見えざるリスク」に対して、多くの企業が見落としがちな、しかし極めて効果的なアプローチについてお話しします。それは、特別なシステムや大掛かりな研修ではなく、もっと身近で、もっと人間的な「対話」、特に上司と部下が頻度高く行う「1on1」を通じて、社員一人ひとりのコンプライアンス意識とモラルを内側から育んでいくという考え方です。なぜ、地道な対話が、組織を不正から守る強固な土台となるのか。その具体的な理由と仕組みについて、深く掘り下げてまいります。
なぜ、コンプライアンス問題は後を絶たないのか?
そもそも、なぜコンプライアンス違反やモラルの低下といった問題は発生するのでしょうか。多くの企業では、問題が発覚すると、その原因を「当該社員の知識不足」や「個人の資質」に求めがちです。そして、対策として全社的なコンプライアンス研修を強化したり、服務規程をより厳格なものに改訂したりします。
もちろん、ルールを知らなければ守りようがありませんから、知識のインプットは重要です。しかし、それだけで問題が解決しないことは、多くの事例が証明しています。真の原因は、もっと根深く、組織の構造や文化に潜んでいる場合がほとんどです。
1. 過度な成果主義がもたらすプレッシャー 「何があっても目標を達成しろ」「結果がすべてだ」という強いプレッシャーは、営業担当者を精神的に追い詰めます。達成への近道を求めるあまり、多少強引な営業手法や、顧客への不誠実な説明に手を染めてしまう。最初は小さな一歩だったとしても、一度その一線を越えてしまうと、感覚が麻痺し、徐々に大きな問題へと発展していくのです。これは個人の弱さというよりも、そうせざるを得ない状況に追い込む組織の構造に問題があると言えます。
2. コミュニケーション不足による「孤立」 特に営業の現場では、個々の担当者が単独で顧客と向き合う場面が多くなります。日々の業務で判断に迷うこと、倫理的に「グレー」だと感じること、顧客からの理不尽な要求など、一人で抱え込んでしまうケースは少なくありません。「こんなことを相談したら、能力が低いと思われるのではないか」「上司は忙しそうだから、迷惑をかけられない」といった遠慮が、相談の機会を奪い、結果として誤った自己判断を招きます。この「孤立」こそが、不正が生まれる温床となるのです。
3. 形骸化する「ルール教育」の限界 年に数回の集合研修や、eラーニングでコンプライアンスの重要性を説いても、多くの社員にとっては「他人事」で終わってしまいがちです。「知識としては知っている」けれど、それが自分の日々の業務とどう結びつくのか、具体的な場面でどう判断すべきなのかが、腹落ちしていないのです。ルールはあくまで普遍的なものであり、現場で起こる千差万別の事象すべてをカバーすることはできません。本当に必要なのは、ルールを丸暗記することではなく、そのルールの背景にある「なぜ、それが必要なのか」という本質を理解し、未知の状況に直面した際に、自らの倫理観に基づいて正しく判断できる力です。
このように、コンプライアンス問題の根源は、単なる知識不足ではなく、「プレッシャー」「孤立」「思考停止」といった、組織の風土やコミュニケーションのあり方に深く関わっています。だとすれば、対策もまた、その根源にアプローチするものでなければなりません。
解決の糸口は「質の高い対話」にある
では、どうすれば組織の風土を健全化し、社員一人ひとりが自律的な倫理観を持てるようになるのでしょうか。その答えが、冒頭で提示した「頻度の高い1on1」に代表される、上司と部下の質の高い「対話」にあります。
なぜ、対話が有効なのでしょうか。その理由は大きく3つあります。
第一に、「心理的安全性」の醸成です。 心理的安全性とは、「この組織の中では、自分の意見や感情を安心して表明できる」とメンバーが感じられる状態のことです。上司が定期的に1on1の時間を設け、部下の話に真摯に耳を傾ける。決して否定から入らず、まずは受け止める。この積み重ねが、両者の間に強固な信頼関係を築きます。
信頼関係が構築されると、部下は「実は、あのお客様との間で少しトラブルがあって…」「このやり方、少しルールから外れている気がするのですが…」といった、ネガティブな情報や、自身の弱み、懸念事項を率直に打ち明けられるようになります。これは、問題が小さいうちに早期発見し、適切に対処するための、何より重要な第一歩です。不正の多くは、隠蔽されることによって深刻化します。何でも話せる関係性こそが、最強のリスク管理なのです。
第二に、「価値観の共有」と「行動規範の自分事化」です。 研修でスライドを見せながら説明される会社の理念や行動規範は、どこか抽象的で、自分事として捉えにくいものです。しかし、1on1という一対一の対話の場であれば、上司は自らの言葉で、自らの経験を交えながら、その価値観を部下に伝えることができます。
「以前、こういう案件で無理をして、結果的にお客様の信頼を失ってしまった経験がある。だから、短期的な売上よりも、長期的な信頼関係を大切にしたいんだ」「この会社の行動規範にある『誠実さ』というのは、具体的に言うと、こういう場面でこういう判断をすることを意味するんだよ」。
このような具体的な言葉は、部下の心に深く刻まれます。ルールが単なる「守るべきもの」から、「大切にすべき価値観」へと変わる瞬間です。この価値観の共有こそが、マニュアルには書かれていないグレーゾーンに直面した際の、正しい判断の拠り所となります。
第三に、「自律的な判断力」の育成です。 質の高い1on1は、上司が部下に一方的に指示を与える場ではありません。むしろ、主役は部下です。上司は、「君ならどう考える?」「その判断の背景には、どんな考えがあるの?」といった問いかけを通じて、部下自身に深く考えさせることが求められます。
例えば、部下が「ある顧客から、納期を無理に早めるよう要求されている」と相談してきたとします。ここで「できないと断れ」と指示するのは簡単です。しかし、それでは部下の思考力は育ちません。そうではなく、「その要求に応えることで、どんな良いことがある?逆に、どんなリスクが考えられる?」「お客様が本当に求めていることは何だろう?」「品質を落とさずに、何かできることはないだろうか?」と一緒に考えるプロセスを経ることで、部下は多角的に物事を捉え、リスクを考慮し、誠実な対応を自ら導き出す訓練を積むことができます。この積み重ねが、コンプライアンス意識に裏打ちされた、自律的な判断力を養うのです。
「対話」を仕組み化し、組織文化を育む
ここまで、頻度の高い対話、特に1on1がコンプライアンスやモラルの向上に寄与する理由を述べてきました。それは、社員が安心して懸念を口にできる「心理的安全性」を確保し、会社の「価値観」を自分事として捉えさせ、自らの頭で考える「自律的な判断力」を育むからです。
これは、単なる精神論ではありません。個々の社員の倫理観という、目に見えにくいものを、組織として着実に向上させていくための、極めてロジカルな仕組みなのです。
もちろん、ただ「1on1をやれ」と号令をかけるだけでは機能しません。大切なのは、その「質」と「継続性」です。
- 「頻度」の重要性: なぜ「頻繁に」行う必要があるのか。それは、問題や懸念が新鮮なうちに、記憶が薄れないうちに話せるからです。また、定期的に顔を合わせることで、関係性が維持され、いざという時に相談しやすい空気が生まれます。月に一度よりも週に一度、たとえ15分でも良いのです。継続的な接点が、信頼の土台を固めます。
- 「聴く」姿勢の徹底: 1on1の時間は、上司の進捗管理の時間ではありません。部下が安心して話せるよう、上司は「評価者」の仮面を外し、「支援者」として、まずは徹底的に聴くことに集中すべきです。業務の話だけでなく、キャリアの悩みやプライベートの状況など、部下という一人の人間に寄り添う姿勢が、心の扉を開く鍵となります。
- 育成視点での対話: 対話のゴールは、短期的な問題解決だけではありません。その対話を通じて、部下がどう成長できるか、という育成の視点を持つことが不可欠です。答えを教えるのではなく、問いを投げかけ、部下の内省を促す。そのプロセスそのものが、最も効果的な人材育成となります。
こうした質の高い対話を、一部の優秀なマネージャーの個人的スキルに頼るのではなく、組織全体の「仕組み」として定着させていくこと。それこそが、一過性の研修では決して実現できない、持続可能で強固なコンプライアンス体制の礎を築くのです。
おわりに:強い組織は、健全な対話から生まれる
企業の持続的な成長は、売上という「結果」だけで測ることはできません。その結果を生み出す「プロセス」が健全であってこそ、真に強い組織と言えるでしょう。そして、そのプロセスの健全性を担保するのは、分厚いマニュアルや厳しい監視体制ではなく、組織の隅々にまで浸透した、社員一人ひとりの高い倫理観とモラルです。
その倫理観やモラルは、日々の地道なコミュニケーション、とりわけ上司と部下の血の通った「対話」の中で、少しずつ育まれていくものです。部下の小さなサインに気づき、共に悩み、共に考える。その繰り返しが、不正の芽を摘み、社員が安心して、誇りを持って働ける文化を醸成します。
経営者、営業責任者の皆様。今一度、自社のコミュニケーションのあり方を見つめ直してみてはいかがでしょうか。会議での報告や日報の確認だけでなく、社員一人ひとりの「声」に、どれだけ耳を傾けられているでしょうか。
日々の対話の積み重ねという、一見すると遠回りに思えるアプローチこそが、予期せぬリスクから会社を守り、社員の成長を促し、結果として持続的な営業成果へと繋がる、最も確実な道であると私たちは信じています。 もし、貴社において、こうした対話を通じた組織文化の醸成や、営業現場での具体的な仕組みづくり、そしてそれを実践できる人材の育成に課題を感じていらっしゃるのであれば、一度、専門家の視点を取り入れてみることも有効な選択肢かもしれません。まずは、社員との対話の時間を、意識的に作ることから始めてみてはいかがでしょうか。その小さな一歩が、貴社の未来をより強固なものにするはずです。