はじめに
「最近の若い者はすぐに会社を辞める」 「せっかく育ててやったのに、恩を仇で返すようなものだ」
あなたの会社では、社員の退職や転職に対して、こんな声が聞こえてきませんか?
一人の社員が辞めるという事実。それは、残された側にとって、寂しさや、業務負担の増加、そして時には「裏切られた」というようなネガティブな感情を引き起こすことがあるかもしれません。
しかし、もし組織全体が「転職=悪」という雰囲気にとらわれているとしたら、それは企業にとって、将来の成長を妨げる、非常に危険なサインかもしれません。
今回は、「転職」という個人の選択を、企業がどのように捉えるべきか、そして、社員一人ひとりのキャリアアップを心から応援できる組織が、最終的にいかにして持続的な成長を遂げるのかについて、考えていきたいと思います。
時代の変化:転職はもはや「当たり前」の選択肢
まず、私たち経営者や管理職が認識を新たにするべきなのは、社会の価値観が大きく変化したという事実です。
かつての日本では、新卒で入社した会社に定年まで勤め上げる「終身雇用」が一般的でした。当時は、一つの会社に長く勤めることが美徳とされ、転職は「キャリアの失敗」や「忍耐力がない」といったネガティブなイメージで見られがちでした。
しかし、現代はどうでしょうか。 経済のグローバル化、テクノロジーの急速な進化、そして働き方の多様化。社会はめまぐるしく変化し、個人のキャリアに対する考え方も大きく変わりました。
一つの会社で得られるスキルや経験だけでは、変化の激しい時代を乗り越えられないかもしれない。より自分らしく、やりがいを持って働くためには、環境を変えることも必要だ。
そう考える人が増え、転職はキャリアをより豊かにするための「ポジティブな選択肢」として、社会に広く受け入れられるようになりました。今や、転職経験がない人の方が珍しい、と感じる場面も少なくないはずです。
このような時代の変化を無視して、古い価値観のまま「転職は悪である」という考えに固執することは、企業を時代遅れの存在にしてしまうだけでなく、計り知れない多くのものを失うことにつながるのです。
「転職=悪」という文化がもてもたらす、企業の深刻なデメリット
社員の転職をネガティブに捉える文化は、具体的にどのようなデメリットを企業にもたらすのでしょうか。それは、私たちが思っている以上に深刻で、多岐にわたります。
1. 最も失いたくない「優秀な人材」から見限られる
皮肉なことに、「転職は悪だ」という空気が強い会社ほど、最も優秀で、成長意欲の高い人材から先に見切りをつけられてしまいます。
なぜなら、優秀な人ほど、自分の市場価値を客観的に把握しており、常に成長できる環境を求めているからです。彼らは、自分のキャリアプランについて上司に相談しても「余計なことは考えずに、今の仕事に集中しろ」と一蹴されたり、社内で新しい挑戦をしようとしても「前例がないから」と止められたりするような環境に、誰よりも早く息苦しさを感じます。
結果として、彼らは社内での成長に限界を感じ、より良い機会を求めて静かに外の世界へと去っていきます。
問題なのは、会社側がその兆候に気づけないことです。「まさか、あのエース社員が辞めるなんて…」と、退職願が出されて初めて事態の深刻さに気づくケースは後を絶ちません。そして、後に残るのは、現状維持を望む社員や、転職する勇気やスキルがない社員ばかり、という事態に陥りかねないのです。
2. 組織全体の「挑戦する意欲」が失われ、停滞する
社員の転職を快く思わない組織では、必然的に「辞めさせない」ためのマネジメントが行われがちです。それは、社員を過度に管理したり、挑戦的な仕事を与えずに無難な業務ばかりを任せたり、といった形となって現れます。
このような環境では、社員は「新しいことに挑戦して失敗するよりも、言われたことを無難にこなしている方が安全だ」と考えるようになります。失敗を恐れるあまり、誰もリスクを取ろうとせず、組織全体から活気が失われていきます。
新しいアイデアが生まれず、業務改善も進まない。外部から新しい知識や価値観が入ってくることもないため、組織はどんどん内向きになり、世の中の変化から取り残されていく。いわゆる「ぬるま湯」のような状態です。
この状態は、短期的には安定しているように見えるかもしれません。しかし、市場環境が激変したとき、変化に対応できず、あっという間に競争力を失ってしまうもろさを抱えているのです。
3. 採用がどんどん難しくなる「負のスパイラル」
現代では、インターネット上の口コミサイトやSNSを通じて、企業の内部情報が驚くほど簡単に手に入るようになりました。
「あの会社は、辞める時にひどいことを言われるらしい」 「成長できる環境じゃないと、元社員が言っていた」
このようなネガティブな評判は、瞬く間に拡散されます。一度「社員を大切にしない会社」「キャリアアップが望めない会社」というレッテルが貼られてしまうと、それを払拭するのは容易ではありません。
結果として、採用活動を行っても優秀な人材からの応募が集まらなくなり、採用コストはどんどん膨れ上がっていきます。ようやく採用できたとしても、組織の文化が変わらない限り、また同じように人材が流出してしまうという「負のスパイラル」に陥ってしまうのです。
4. 社員の「エンゲージメント」が著しく低下する
エンゲージメントとは、社員が会社のビジョンに共感し、仕事に対して情熱を持って、自発的に貢献しようとする意欲のことです。企業の持続的な成長には、このエンゲージメントの高さがとても重要になります。
しかし、「どうせこの会社にいても、自分のキャリアは先が見えている」「本当はやりたいことがあるけれど、辞めさせてもらえそうにない」と感じながら働いている社員のエンゲージメントが高いはずがありません。
彼らは、生活のために最低限の仕事はこなしますが、それ以上のパフォーマンスを発揮しようとはしません。顧客のため、会社のために、より良い仕事をしようという情熱は、日々の諦めの中で少しずつ消えていってしまうのです。
このような社員が多くなれば、組織全体の生産性が低下するのは当然の結果と言えるでしょう。
では、どうすればいいのか?キャリアアップを「本当に」応援できる組織とは
ここまで、「転職=悪」という文化がもたらすデメリットについてお話ししてきました。では、逆に、社員のキャリアアップを心から応援できる組織とは、どのような組織なのでしょうか。それは、単に「転職してもいいよ」と言うだけでなく、社員一人ひとりの成長に本気で向き合う「仕組み」と「文化」を持った組織です。
1. キャリアについて安心して話せる「オープンな関係性」
最も大切なのは、上司と部下が、お互いのキャリアについてオープンに、そして安心して話せる関係性を築くことです。
そのためには、定期的な1on1ミーティングなどが非常に有効です。ただし、その場が単なる業務の進捗確認で終わってしまっては意味がありません。
「この仕事を通じて、どんなスキルを身につけたい?」 「将来的には、どんな仕事に挑戦してみたい?」 「そのために、会社としてどんなサポートができるだろう?」
このように、上司が部下の長期的なキャリアに関心を持ち、問いかける姿勢が大切です。
もちろん、部下がいきなり「3年後には起業したいです」と本音を話してくれるとは限りません。大切なのは、日頃から「あなたの成長を応援している」というメッセージを伝え続け、信頼関係を少しずつ築いていくことです。部下が「この上司になら、本音でキャリアの相談をしても大丈夫だ」と感じられるようになることが、すべての始まりです。
2. 社内での多様な「成長の機会」を提供する
社員の成長意欲に応えるためには、社内に多様なキャリアパスを用意することも重要です。
昇進や昇格といった縦のキャリアだけでなく、部署異動による横のキャリア、専門性を深めるキャリアなど、様々な選択肢を提示できるのが理想です。
- 社内公募制度: 社員が自らの意思で、興味のある部署やポジションに応募できる制度です。社員の挑戦意欲を刺激し、人材の適材適所な配置にもつながります。
- 副業の許可: 本業に支障が出ない範囲で副業を認めることも、社員が新たなスキルや人脈を得る良い機会になります。外部で得た知見が、本業に還元されるケースも少なくありません。
- 学習支援: 資格取得の支援や、外部セミナーへの参加費用補助など、社員の学びたいという意欲を会社が金銭的にサポートする制度です。
大切なのは、「成長したいなら、社外に出るしかない」と社員に思わせないことです。「この会社にいれば、様々な方法で成長し続けられる」と感じてもらうことが、結果的に人材の定着につながります。
3. 「挑戦を推奨し、失敗を許容する」文化を育む
新しいことへの挑戦には、失敗がつきものです。キャリアアップを応援する組織は、この「失敗」の捉え方が違います。
失敗を個人の責任として追及し、責め立てるのではなく、「挑戦した結果としての、価値ある学び」として捉えるのです。
「なぜ失敗したのか」を感情的に問い詰めるのではなく、「この失敗から何を学べるか」「次にどう活かすか」をチーム全体で冷静に分析し、共有する。このような文化が根付いていれば、社員は失敗を恐れずに、新しい仕事や困難な課題に積極的にチャレンジできるようになります。
そして、その一つひとつの挑戦が、社員個人を成長させ、ひいては組織全体の力を強くしていくのです。
4. 誰もが納得できる「フェアな評価制度」
社員の頑張りや成長を正しく評価し、それに見合った処遇(給与、役職など)に反映させる仕組みも、言うまでもなく重要です。
年齢や社歴に関わらず、個人の出した成果や会社への貢献度、成長の度合いが、公平・公正に評価される。そして、その評価結果について、上司から本人へ、きちんと理由を説明する(フィードバック)。
この透明性と納得感のある評価制度がなければ、社員は「頑張っても、どうせ正当に評価されない」と感じ、モチベーションを失ってしまいます。自分の成長が、きちんと会社の評価に結びついていると実感できることが、さらなる成長への意欲を生むのです。
5. 「卒業」を応援し、良好な関係を続ける
様々な手を尽くしても、最終的に社員が「会社を辞めて、新しい環境で挑戦したい」という決断をすることもあるでしょう。
その時、企業に求められるのは、どのような姿勢でしょうか。 「裏切り者」と罵倒し、冷たく突き放すことでしょうか。それでは、これまで会社に貢献してくれた社員に対してあまりにも失礼ですし、会社の評判を著しく落とすだけです。
キャリアアップを本当に応援できる組織は、社員の「卒業」を祝福し、快く送り出します。
「うちの会社で得た経験を、次のステージでもぜひ活かしてほしい」 「君なら、どこへ行っても活躍できると信じているよ」 「またいつでも、顔を見せに来てほしい」
このように、ポジティブな言葉で送り出すことで、退職後もその社員と良好な関係を続けることができます。
彼らは、社外で貴重な経験を積み、いつかまた、顧客として、あるいはビジネスパートナーとして、あなたの会社に新たな価値をもたらしてくれるかもしれません。あるいは、数年後にさらに成長した姿で、再び自社に戻ってきてくれる可能性だってあります。
こうした「アルムナイ(卒業生)」とのネットワークを大切にすることは、これからの企業にとって、重要な資産の一つとなるでしょう。
まとめ:社員のキャリアを応援することが、企業の未来をつくる
「転職は悪である」という古い価値観は、もはや現代の企業経営において、百害あって一利なしと言っても過言ではありません。
社員の転職をネガティブに捉えることは、優秀な人材の流出を招き、組織の活力を奪い、企業の成長を止めてしまう危険な兆候です。
これからの時代に求められるのは、企業と個人が「対等なパートナー」として、お互いの成長に貢献し合う関係性です。
企業は、社員一人ひとりのキャリアプランに真摯に耳を傾け、その成長を全力でサポートする。社員は、その会社で働くことを通じて自らの価値を高め、その能力を最大限に発揮して企業の成長に貢献する。たとえ、その道がいつか交わらなくなる時が来たとしても、お互いを尊重し、感謝の気持ちを持って次のステップへと進んでいく。
このような関係性を築くことができたとき、企業は、目先の離職率に一喜一憂することのない、真に強く、しなやかな組織へと生まれ変わることができるはずです。
まずは、あなたの会社に「キャリアについて、安心して話せる場」があるかどうか、そこから見つめ直してみてはいかがでしょうか。社員一人ひとりの成長を応援するその一歩が、企業の持続的な成長の、確かな土台となるのです。