はじめに
「期待していた若手が、突然辞めてしまった」 「中核を担っていた社員から、退職の申し出があった」 「採用しても、なかなか人が定着しない」
多くの経営者やマネージャーの方々が、一度はこのような悩みに直面したことがあるのではないでしょうか。大切な社員が去っていくことは、組織にとって大きな痛手です。残された業務の負担が増えるだけでなく、チームの士気にも影響を与え、採用や再教育にかかるコストも決して小さくありません。
そんな時、私たちはつい、辞めていく社員の側に理由を探してしまいがちです。
「本人のやる気が足りなかったのかもしれない」 「もっと良い給料の会社が見つかったのだろう」 「うちの会社のカルチャーには合わなかったんだ」
このように結論づけるのは簡単です。しかし、本当にそうでしょうか。もし、社員が辞めてしまう本当の原因が、本人ではなく、**会社側の「環境」や「仕組み」**にあるとしたら?
この記事では、社員の離職という問題を「個人の問題」として片付けるのではなく、「組織からのサイン」として捉え直す視点をご提案します。なぜ人が辞めるのか、その根本的な理由を掘り下げ、社員が「ここで働き続けたい」と思える組織をつくるためのヒントをお伝えします。
多くの会社が陥る「辞める理由」の思い込み
社員から退職の意向を伝えられたとき、その「退職理由」を額面通りに受け取ってはいないでしょうか。
「新しい分野に挑戦したくて」 「家庭の事情で」 「一身上の都合により」
これらは、円満に退職するための、いわば「建前」であることが少なくありません。もちろん、本当にポジティブな理由で新たなステップに進む人もいます。しかし、多くのケースでは、会社に対して直接言いにくい「本音」が隠されています。
考えてみてください。もし今の職場が、心から満足できる場所だとしたら、人は多少のことがあっても「辞める」という大きな決断をするでしょうか。給与や待遇はもちろん大切ですが、それだけが理由で人は動きません。もっと根深い、日々の業務の中で積み重なった「何か」が、最終的に退職という決断を後押ししているのです。
「辞めたのは、あの人の忍耐力がなかったからだ」 「最近の若い世代は、すぐに諦めてしまう」
このように、辞めていく個人の資質や世代論に原因を求めてしまうのは、非常に危険な考え方です。なぜなら、そのように考えている限り、組織が抱える本質的な問題は何も解決しないからです。同じような理由で、次の社員、またその次の社員も辞めていくという負の連鎖が続いてしまうでしょう。
大切なのは、社員が辞めていくという事実を、自社の組織やマネジメントを見直すための貴重な機会として捉えることです。「なぜ、彼は辞めるという決断に至ったのか?」「私たちが気づけなかった、あるいは提供できなかったものは何だったのか?」と、自社に矢印を向けて考えることから、本当の変化は始まります。
人が辞める本当の理由、それは「会社」にある
では、社員が口に出さない「本音の退職理由」とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。様々な調査や現場の声から見えてくるのは、その多くが会社側の環境や体制に起因しているという事実です。ここでは、代表的な5つの理由をご紹介します。
1. 自分の成長が感じられない
人は、自分が成長している、前に進んでいるという実感を得ることで、仕事へのやりがいやモチベーションを維持します。昨日できなかったことができるようになる、新しい知識やスキルが身につく、より責任のある仕事を任される。こうしたポジティブな変化が感じられない環境は、社員にとって非常につらいものです。
「毎日同じことの繰り返しで、スキルアップしている気がしない」 「この会社にいても、自分の市場価値は上がらないのではないか」 「将来のキャリアプランが見えず、漠然とした不安がある」
このような思いを抱え始めると、社員は自分の未来をこの会社に託すことができなくなり、成長できる環境を求めて外に目を向け始めます。これは、向上心のある優秀な社員ほど、強く感じる傾向があります。会社が社員一人ひとりの成長に興味を示さず、ただ目の前の業務をこなす「駒」として扱っていると、彼らの心は静かに離れていってしまうのです。
2. 上司との関係が良くない
「人は会社を辞めるのではなく、上司を辞めるのだ」という言葉があるように、直属の上司との関係性は、社員の働きがいを左右する極めて大きな要因です。
- マイクロマネジメント: 仕事の進め方を細かく管理し、部下の自主性を奪ってしまう。
- 放任主義: 指示やフィードバックが曖昧で、困っていても助けてくれない。
- 高圧的な態度: 意見を聞き入れず、自分の考えを一方的に押し付ける。
- コミュニケーション不足: 普段の会話がなく、何を考えているのか分からない。
このような上司のもとでは、部下は安心して働くことができません。報告や相談がしにくくなり、小さなミスが大きなトラブルに発展することもあります。何より、自分の存在が軽んじられていると感じ、精神的に疲弊してしまいます。たとえ仕事内容が好きで、同僚との関係が良好だったとしても、直属の上司との関係が悪ければ、出社すること自体が大きなストレスとなり、退職を決意する十分な理由になり得ます。
3. 正当に評価・承認されていないと感じる
誰しも、自分の頑張りを認めてもらいたい、貢献を評価してもらいたいという「承認欲求」を持っています。これは、給与や役職といった目に見える形のものだけではありません。
「目標を達成したのに、上司から『よくやった』の一言もない」 「陰で支えるような仕事は、誰も見てくれていない気がする」 「評価の基準が曖昧で、なぜあの人が評価されて自分が評価されないのか納得できない」
このような不満は、日々のモチベーションを確実に蝕んでいきます。自分の努力が正当に報われないと感じると、「この会社のために頑張っても無駄だ」という無力感につながります。逆に、プロセスをきちんと見てくれたり、感謝の言葉をかけてくれたりするだけで、人は「もっと頑張ろう」と思えるものです。金銭的な報酬以上に、こうした日々の承認やフィードバックが、社員のエンゲージメント(仕事への熱意や貢献意欲)を支えています。
4. 会社のビジョンや方向性に共感できない
社員は、単に給料をもらうためだけに働いているわけではありません。「この会社が目指す未来に貢献したい」「この会社の価値観は素晴らしい」といった、ビジョンへの共感もまた、働き続けるための重要な動機となります。
しかし、経営陣が掲げるビジョンが現場に全く伝わっていなかったり、日々の業務がそのビジョンと結びついていなかったりすると、社員は「自分はいったい何のためにこの仕事をしているのだろう?」という疑問を抱くようになります。特に、会社の決定に一貫性がなかったり、経営層が言っていることとやっていることが違ったりすると、会社に対する信頼は一気に失われます。自分が信じられないもののために、力を尽くすことはできません。自分の仕事が、会社の大きな目標のどの部分を担っているのか。そのつながりが見えなくなったとき、社員は組織の一員であることの意味を見失ってしまうのです。
5. 働き方や業務負荷に無理がある
慢性的な長時間労働、休日出勤、過度な業務量。これらが常態化している職場環境は、社員の心と体を確実にすり減らしていきます。短期的に成果が出たとしても、それは社員の犠牲の上に成り立っているに過ぎず、持続可能ではありません。
「仕事量が多くて、毎日終電帰り。プライベートの時間が全くない」 「人手不足なのに、業務量は増える一方。心身ともに限界だ」 「有給休暇を取りたいと言い出せる雰囲気ではない」
このような状況では、仕事への情熱も次第に薄れていきます。ワークライフバランスを重視する価値観が広まっている現代において、社員の健康や生活を軽視するような会社に、長く留まりたいと思う人はいません。優秀な人材ほど、自分のパフォーマンスを最大限に発揮できる環境を求めます。無理な働き方を強いる会社は、自ら大切な人材を追い出しているのと同じことなのです。
人が「居続けたい」と思う組織をつくるために
では、社員の離職を防ぎ、誰もが「ここで働き続けたい」と思える組織をつくるためには、具体的に何をすればよいのでしょうか。それは、前述した5つの「辞める理由」を一つひとつ解消していくことに他なりません。特別な魔法があるわけではなく、日々の地道な取り組みの積み重ねが、強い組織をつくります。
「対話」を増やし、個人の成長を支援する
社員の成長実感を高め、上司との良好な関係を築く上で、非常に効果的なのが定期的な1on1ミーティングです。これは、上司が部下の業務進捗を管理するための場ではありません。主役はあくまで部下です。
- 部下が今、何に悩み、何に困っているのか
- 今後、どのようなスキルを身につけ、どんなキャリアを歩んでいきたいのか
- 仕事を通じて、どんな喜びややりがいを感じているのか
こうしたことを、上司が真剣に耳を傾け、理解しようと努める時間です。週に1回15分でも、月に1回30分でも構いません。形式張った面談ではなく、「最近どう?」と気軽に話せる場を定期的につくることが大切です。
このような対話を通じて、上司は部下の状況をタイムリーに把握し、必要なサポートを提供できます。部下は、「自分のことを気にかけてくれている」「この上司は自分の味方だ」と感じ、信頼関係が深まります。また、対話の中で本人のキャリア志向が見えてくれば、会社として成長の機会を提供しやすくなり、「この会社は自分の成長を応援してくれる」という実感にもつながります。こうした小さな対話の積み重ねが、心理的な安全性を生み、風通しの良い組織文化の土台となります。
「仕組み」で評価と承認を文化にする
評価や承認が、特定の上司の気まぐれや個人の感覚に左右されてしまうのは問題です。誰もが納得できる公平な評価制度を整えると共に、日々の「承認」を文化として根付かせる仕組みをつくりましょう。
例えば、
- サンクスカードやピアボーナス制度: 社員同士が日々の業務の中で感じた感謝を伝え合い、称賛し合う仕組み。
- 週次や月次の定例会での表彰: 大きな成果だけでなく、良い行動やチームへの貢献などを取り上げて共有する。
- フィードバックの習慣化: 良かった点、改善できる点を具体的かつタイムリーに伝える文化をつくる。
大切なのは、「頑張りを見てくれている人がいる」という実感です。仕組みとして導入することで、承認や感謝を伝えることが当たり前の文化となり、組織全体がポジティブな雰囲気に包まれていきます。
会社の「物語」を語り、共感を育む
会社のビジョンや理念は、ただ額縁に入れて飾っておくだけでは意味がありません。経営者やマネージャーが、自らの言葉で、情熱を持って、繰り返し語り続けることが重要です。
「私たちは、なぜこの事業をやっているのか?」 「この仕事を通じて、社会にどんな価値を提供したいのか?」 「だから、君のこの仕事が、こんなに大切なんだ」
このように、会社の大きな物語と、社員一人ひとりの日々の業務を結びつけて語ることで、社員は自分の仕事に誇りと意味を見出すことができます。会社がどこへ向かっているのか、その船に自分も乗っているのだという一体感が、困難な状況を乗り越える力になります。
まとめ
社員が辞めていくとき、その原因を個人の能力や意欲の問題にしてしまうのは、最も簡単な思考停止です。しかし、それでは組織は一歩も前に進めません。
社員の退職は、会社が抱える課題を教えてくれる「貴重なサイン」です。そのサインを真摯に受け止め、「なぜ、うちの会社では、彼・彼女が輝き続けることができなかったのだろう?」と自問することから、すべては始まります。
- 社員の成長を心から願い、支援しているか?
- 信頼関係に基づいた、質の高い対話はできているか?
- 頑張りが正当に認められ、承認される文化があるか?
- 会社の目指す未来に、誰もがワクワクできているか?
- 社員が心身ともに健康で、安心して働ける環境か?
これらの問いに、自信を持って「はい」と答えられる組織であること。それが、人が辞めないだけでなく、社員一人ひとりが自らの能力を最大限に発揮し、会社と共に成長していける組織の姿ではないでしょうか。
社員の退職を嘆くのではなく、より良い組織をつくるための「きっかけ」と捉える。その視点の転換こそが、持続的に成長する強い組織をつくるための第一歩なのです。